―― 生ける信仰 ――
前回覚えた同じテーマから、群集や弟子たちに示された主の御心を考えていきたいと思う。今日開く聖書の背景を少し念頭に置いてほしい。
主は三人の弟子を伴って山に登り、ここで、主の変貌と栄光の御姿を弟子たちは仰ぐ。次の日その山から降りられたとき残された弟子たちの廻りに群衆が群がっている。主はてんかんの子供を持つ父親の懇願に応えておいやしになった。イエス様は弟子、群集に対して信仰ということについて深く教えていかれる。この記事の前後にかけて、共観福音書は共通して「主であるイエスキリストに対する信仰」を弟子たちに深く教えておられる。御霊も注意深くこのことを私たちに示していてくださる。
マタイ17:14-21
17:14
彼らが群衆のところに来たとき、ひとりの人がイエスのそば近くに来て、御前にひざまずいて言った。
17:15
「主よ。私の息子をあわれんでください。てんかんで、たいへん苦しんでおります。何度も何度も火の中に落ちたり、水の中に落ちたりいたします。
17:16
そこで、その子をお弟子たちのところに連れて来たのですが、直すことができませんでした。」
17:17
イエスは答えて言われた。「ああ、不信仰な、曲がった今の世だ。いつまであなたがたといっしょにいなければならないのでしょう。いつまであなたがたにがまんしていなければならないのでしょう。その子をわたしのところに連れて来なさい。」
17:18
そして、イエスがその子をおしかりになると、悪霊は彼から出て行き、その子はその時から直った。
17:19
そのとき、弟子たちはそっとイエスのもとに来て、言った。「なぜ、私たちには悪霊を追い出せなかったのですか。」
17:20
イエスは言われた。「あなたがたの信仰が薄いからです。まことに、あなたがたに告げます。もし、からし種ほどの信仰があったら、この山に、『ここからあそこに移れ。』と言えば移るのです。どんなことでも、あなたがたにできないことはありません。
弟子たちは19節でこう言っている。「なぜ、私たちには悪霊を追い出せなかったのですか。」
イエス様は言われた。「あなたがたの信仰が薄いからです。」
主は信仰のことを言うとき、からし種ほどの信仰があったらその小さな信仰でさえも山が移ると言われた。この小さな信仰の持つ力を示して、弟子たちにあなた方の信仰がうすいからだ、と言われる。うすい信仰というのは大小のことではなく、力のない信仰のことを指して言っておられる。
主は時々、弟子たちの姿をみて弟子たちの臆病なとき「信仰が浅い」といわれ、「信仰がないのはどうしたことです」と語っていかれる。どんなに小さくても真実の信仰があれば山が動くと言うとき、この「うすい信仰」は「実際には生きていない信仰」のことを言っている。そして、この言い方をされるのは、叱責や批判と言うより、むしろ、弟子に対して御自分を信じきる者へと導く主の御心の中で語られている。
この観点を持って弟子たちの信仰の状況(心境)を探ってみたい。
弟子たちはイエス様を『主なるキリスト』であると告白した(16章)。しかし、その矢先に主は御自分がイスラエルの長老・祭司たちから多くの苦しみを受け捨てられ殺される、そして3日目によみがえらなければならないことを示されていた。しかし、そのことは弟子たちには分からなかった。
3人の弟子、ペテロとヤコブとヨハネは、山上で主からもう一度このことを聞いた。
17:9
彼らが山を降りるとき、イエスは彼らに、「人の子が死人の中からよみがえるときまでは、いま見た幻をだれにも話してはならない。」と命じられた。
「死人の中からよみがえるときまで」、この言葉を聞いた3人の弟子たちは、「彼らには分からなかった」と別の福音書には示されている。よみがえるときまで、と聞く弟子たちのこころの状況は単なる否定や反信仰ではない。どのように主の言葉を聞いたかはマルコの福音書に描かれている。
マルコの福音書9:9
9:9
さて、山を降りながら、イエスは彼らに、人の子が死人の中からよみがえるときまでは、いま見たことをだれにも話してはならない、と特に命じられた。
9:10
そこで彼らは、そのおことばを心に堅く留め、死人の中からよみがえると言われたことはどういう意味かを論じ合った。
彼らは主の言葉を心に堅く留めていたというのが、この時点の心境である。この3人の弟子は特にイエス・キリストの力と栄光を目の当たりにしている。そのような弟子は主の不理解の言葉を受けて、イエス様のいわれた言葉は決して偽りであるとは思わなかった。主イエスへの信頼のゆえに、確かにその言われたことは疑いなく信じていたに違いない。しかし、弟子の信じる信仰(の質)は、実際的な意味では理解できないでいた。主が語られたとおりの意味では悟る(信じる)ことが出来なかった。だから、復活とはどういう意味だろうと別の意味(次元)で論じ合った。
イエスはご自分が復活すると言っておられたが、それを聞いた弟子たちは、主への信頼のゆえに事実であるに違いないと思っているのだが、主の言われている意味のままでは理解することは出来なかった。別の次元に置き換えて信じようとした。
このことは私たちがどのように主の御言葉を受け入れるかということを覚えさせられる。このような信じ方、受け入れ方は、イエス様に対する偽善でも反信仰でもない。ただ、この種の理解できない信仰は「うすい信仰」であり、そのままでは神の力を実際には体験することの出来ない生きていない信仰である。
私たちはこれと同じようなことを良く分かっているのではないだろうか。
神のみわざに対して、主を信じる信仰(の質)は、神の業(恵み)に預かる(体験する)まで理解できない。私たちは主の恵みを体験して、そのとき主の恵みの約束を文字通りの意味でとらえることが出来る。恵みを受けて初めて恵み深さを信じることが出来る、という姿である。
イエス・キリストを信じるゆえに、数々の主の言葉を信じる立場にあるが、主の示しておられるそのままの意味ではとらえることが出来ないその信仰は薄い信仰である。その信仰はそのままでは生ける力とならない。
その意味で、ベタニヤのマルタとマリヤは、ラザロの蘇りの事件を通してイエス・キリストへの生ける信仰、真の信仰、深い信仰をもってキリストを仰ぐ者へと導かれた弟子だったに違いない。
ラザロが死にかかっているので、姉妹は主に助けを求めた。しかし、時遅く愛する弟は死んでしまった。「もし、主がいてくださったならラザロは死ななかったでしょうに」と言うこのとき、「あなたの兄弟はよみがえるであろう」とおっしゃった。「私はよみがえりであり命である。私を信じるものは死んでも生きる。このことを信じるか」
彼女は主の命の力を信じており、またラザロの復活もよみがえりの時に生きることを告白した。彼女は主を信じた。
しかし、主の言っておられるそのままの意味ではどうしても信じることは出来なかった。愛するもう一人の姉妹もまた同じように主を信頼していたが、主の言われたままの意味では理解できなかった。主の御前で彼女は泣いていた。彼女たちがどれほど主を愛し信頼していても、主の言葉を語られたみこころのままには信じきることのできない不可避的な心の頑なさに縛られていた。
主は涙を流される。
そして主はラザロを死の墓から呼び戻された。
主は約束しておられたように、そのままの意味でラザロを蘇らせてくださった。
この事件は姉妹たちにとっても非常に重要な体験であり、彼女たちの霊の目を開いた。キリストの言われたそのまま(御心のとおり)の意味で受け入れる深い信仰、生ける信仰をもって主を仰ぐ者へと導かれた弟子とされたに違いない。
その後のナルドの香油の注ぎだしの記事を見るなら、福音書の中で描かれる姉妹の信仰の姿はイエス・キリストの言葉を真実に受け止める霊的な状態が描き出されている。
ここで、弟子たちの言葉をもう一度考えてみる。
マタイ17:19-20
17:19
そのとき、弟子たちはそっとイエスのもとに来て、言った。「なぜ、私たちには悪霊を追い出せなかったのですか。」
17:20
イエスは言われた。「あなたがたの信仰が薄いからです。まことに、あなたがたに告げます。もし、からし種ほどの信仰があったら、この山に、『ここからあそこに移れ。』と言えば移るのです。どんなことでも、あなたがたにできないことはありません。
弟子たちは信仰があれば何でも出来る、という保証を受けている。また既に悪霊を追い出す権威も授かっている。主の言葉は、弟子たちには悪霊を追い出しうる者であることを認めていた。
しかし、出来なかった。
それはなぜだろうか。「信仰が薄いからです」。マルコ伝では「この種のものは、祈りによらなければ、何によっても追い出せるものではありません。」とも言われている。祈りによっていないためである。
さて、私たちも同じように主から『あなた方に出来ないことは何もない』と主からの言葉をいただく立場にある。その言葉をいったいどのように素直に聞き入れることが出来るだろうか。自然と3人の弟子たちが主の復活の別の意味を論じ合ったように主の言葉そのままを理解しがたい自分の姿があるかもしれない。それは、反信仰でも、信仰の偽善でもないが、薄い信仰であり「生きていない」信仰である。
「祈りによらなければ」という言葉がある。神を生けるお方と本当に理解するとき信仰者は生ける主イエス様の御前に出て行くことが出来る。
もし私たちが、てんかんの息子の癒しを求める父親のように、あのとき主イエスの御前に進み出て懇願したとしたら、どうだろう。そのように主の救いと力を求めるとき、あの父親の願いに応えられた主イエスが私たちを受け入れられない筈はないという聖書の世界を知っている。(傲慢の意味ではなく主が哀れみ深い方であるから)私たちは求める者を見捨てられるというそのような主の姿を想像できるだろうか。決して出来ない。
私たちが苦しみのとき、主がそこにおられる世界に私たちがいたなら、主の御元に行けば必ず救われることを確信できる。主に求め出て行くとき、必ず哀れみと救いの手を差し伸べてくださる。それは私たちの主張すべきことではないが、そのような哀れみ深い主を知っている。
二千年前の御姿を見ているときそう思うなら、今、クリスチャンが本当に主が生きておられる方、生きて私と共に歩まれるお方を知り、人格的に主を知るなら、主の御前に出て必ずかなえられる祈り求めをすることが出来る。そのとき不安や不信仰はない。神の助けと救いは疑いようがない。そこには、主の御前に出ると言う立場、「祈り」がある。私たち信仰者が生ける信仰を持つことは、現に主と共にあるという事実を知ることによって力が与えられる。
弟子たちも主と共にあるとき、主によって救われた。しかし、主の臨在を失い、その場に主が居てくださらなければ、神に対する真の相対を失っている。そこにはここでいう「祈り」がない。嵐の中で恐怖に身を強張らせるとき、また主が眠っておられるゆえに、弟子たちはしばしば主の臨在の事実を見失った。主と共にあることの祈りのない姿である。主は「信仰がないのはどうしたことです」と言われた。
残された弟子たちは、てんかんの子を癒すことは出来なかった。主が共にいてくださらなかった時、心を主の御前に立って祈ること(主の御前に相対すること)が出来なかった。主はその弟子たちの信仰を薄い信仰、生きていない信仰とおっしゃる。
「なんと信仰のない時代か」主の言葉は、その子の父親にも向けられている。「信じるものにはどんなことでも出来るのです」という主の言葉を受けて、父親は「不信仰な私をお助けください」と叫んだ。父親の祈り、真剣な叫びはこのとき初めて、主の御前に出た。
マルコ伝で語られた「信じるものにはどんなことでも出来るのです」という言葉は弟子にではなく群衆の一人、この父親に向けて言われた言葉だった。
イエス様は、この信仰を弟子や人々、信仰者に深く示そうとしておられるのである。
福音書のこの記事の状況は、弟子も群集も全ての主に相対する者は、イエス・キリストに対する浅い信仰、不完全な信頼を持ってイエス様の御前にある。主がここで語り導く先は、御自身への完全な信頼、純粋な信頼であった。
イエス様はイエス様の示すそのとおりの真実を真っ向から受け止めさせたい。主の語られるありのままの御心で受け入れることを願っておられる。そしてそれこそ生ける信仰である。だから、ペテロの告白の記事(16章)を思うとき、ペテロの主への告白は「父なる神が示したもの」とおっしゃった。その告白は神が示した真実(イエス=キリスト)をそのままの意味で受け入れる人の信仰である。父なる神が示したキリストをそのとおりに受け止める信仰がペテロの告白でもある。
神が示してくださる全ての霊的なわざ(私たちへの恵み・救い・神御自身を示されること)をそのまま受け入れる信仰は、主を告白する。
主の救いのわざを純粋に受け止める時、その信仰は主を告白する。
そして、その信仰告白はクリスチャンを主とともに生かす事実を新たに覚えさせる力となる。
生きた信仰へと導くのである。
以下、テーマに基づく議論と話題