礼拝・学び概要

鈴ヶ峰 キリスト 福音館

200339日(日)

命の性質

――神の命の内を歩む者とされている――

Tヨハネ3:1-9
3:1 私たちが神の子どもと呼ばれるために、・・事実、いま私たちは神の子どもです。・・御父はどんなにすばらしい愛を与えてくださったことでしょう。世が私たちを知らないのは、御父を知らないからです。
3:2 愛する者たち。私たちは、今すでに神の子どもです。後の状態はまだ明らかにされていません。しかし、キリストが現われたなら、私たちはキリストに似た者となることがわかっています。なぜならそのとき、私たちはキリストのありのままの姿を見るからです。
3:3 キリストに対するこの望みをいだく者はみな、キリストが清くあられるように、自分を清くします。
3:4 罪を犯している者はみな、不法を行なっているのです。罪とは律法に逆らうことなのです。
3:5 キリストが現われたのは罪を取り除くためであったことを、あなたがたは知っています。キリストには何の罪もありません。
3:6 だれでもキリストのうちにとどまる者は、罪のうちを歩みません。罪のうちを歩む者はだれも、キリストを見てもいないし、知ってもいないのです。
3:7 子どもたちよ。だれにも惑わされてはいけません。義を行なう者は、キリストが正しくあられるのと同じように正しいのです。
3:8 罪のうちを歩む者は、悪魔から出た者です。悪魔は初めから罪を犯しているからです。神の子が現われたのは、悪魔のしわざを打ちこわすためです。
3:9 だれでも神から生まれた者は、罪のうちを歩みません。なぜなら、神の種がその人のうちにとどまっているからです。その人は神から生まれたので、罪のうちを歩むことができないのです。

 クリスチャンは既に神の子とされているのだと聖書は私たちに宣言している。神の子とされたものは命の性質上、神の性質と似た者となった。9節の神から生まれた者は、罪のうちを歩みません。神から生まれたので、罪のうちを歩むことができないのですという、この宣言に対して理解するとともに、私たちは体験的にもそのことを覚えさせられる。
 神の子となった者の姿かたちは変化していないが、自分の内側が変わっていることに気づくのである。その最も最たるものに、罪に対して痛みを感じるようになったということが上げられる。今までは罪
(この世の犯罪的罪でさえなければ)に対して自由に振舞っていたが、罪(神の御心に反する)に対して心の痛みが大きくなっていく。もう一度詳訳聖書で読んでみたい。

Tヨハネ3:9〔詳訳聖書〕
神から生まれた〈神を父として生まれた〉者は、だれでも〔ことさらに、また承知のうえで〕常習的に罪の生活を送りません。というのは、神の性質が彼のうちに宿っている〈神の生命の原理、神の種がいつまでも彼のうちにとどまっている〉からです。またその人は神から〈神を父として〉生まれているので、罪を犯しつづける生活を送ることが出来ないのです。

 クリスチャンは罪を犯しつづけることが出来なくなった。罪に対して痛みを覚えるようになったことは、神の性質に似たものとされている姿である。命の性質は努力しましょうと言う自己研鑽によることではなく、内にある力の源がその人を押し出すのである。それが命の表れである。

Tサムエル記22:16-19
22:16 しかし王は言った。「アヒメレク。おまえは必ず死ななければならない。おまえも、おまえの父の家の者全部もだ。」
22:17 それから、王はそばに立っていた近衛兵たちに言った。「近寄って、主の祭司たちを殺せ。彼らはダビデにくみし、彼が逃げているのを知りながら、それを私の耳に入れなかったからだ。」しかし王の家来たちは、主の祭司たちに手を出して撃ちかかろうとはしなかった。
22:18 それで王はドエグに言った。「おまえが近寄って祭司たちに撃ちかかれ。」そこでエドム人ドエグが近寄って、祭司たちに撃ちかかった。その日、彼は八十五人を殺した。それぞれ亜麻布のエポデを着ていた人であった。
22:19 彼は祭司の町ノブを、男も女も、子どもも乳飲み子までも、剣の刃で打った。牛もろばも羊も、剣の刃で打った。

 無実の祭司を殺せとサウル王が命じたとき、近衛兵たちは神の祭司を殺すことをためらった。そこでエドム人ドエグに命じた。このドエグは何のためらいもなく祭司たちを殺し、他85人を虐殺した。このエドム人はエサウの子孫であって神を恐れることの無い家系(血族)である。ヘブル書ではエドムの祖であるこのエサウのことを「不品行の者」「一杯の食物と引き替えに自分のものであった長子の権利を売ったエサウのような俗悪な者」と呼んだ。エドム人ドエグには、ここで神の祭司たちを殺すことは何でもなかった。そのことで心の痛みを伴わなかった。サウルの側近、近衛兵は祭司を殺すことは出来なかった。神を恐れたからである。
 主を恐れる者の態度はどうであろうか。

Tサムエル記26:7-9
26:7 ダビデとアビシャイは夜、民のところに行った。見ると、サウルは幕営の中で横になって寝ており、彼の槍が、その枕もとの地面に突き刺してあった。アブネルも兵士たちも、その回りに眠っていた。
26:8 アビシャイはダビデに言った。「神はきょう、あなたの敵をあなたの手に渡されました。どうぞ私に、あの槍で彼を一気に地に刺し殺させてください。二度することはいりません。」
26:9 しかしダビデはアビシャイに言った。「殺してはならない。主に油そそがれた方に手を下して、だれが無罪でおられよう。」

ダビデの心は、「主に油そそがれた方に手を下して、だれが無罪でおられよう」という言葉に表れている。エドム人とは正反対の性質を表している。ダビデは神を恐れ敬っていた。この神への恐れは単なる善悪ではない。
 もし、善悪や損得で判断するなら、ダビデはサウルを殺しても良いし、むしろ殺すべきだった。既に主はダビデに確かに王権を渡しておられたからである。しかし、ダビデにとって命の表れのゆえに主への恐れによって手を下すことが出来なかった。ダビデは決して臆病ではなかった。むしろ潔く、善悪に対してあいまいではなかった。彼は又勇士でもあった。しかし、この悪王を殺すことを、ダビデの主の命の表れがそうさせなかった。内側から押し出す力によっているのである。

 クリスチャンは神の子であり、神の性質に預かる者である。だから、罪を犯すことには臆病になる。そして、神のみ業に対しては大胆になる。

 神の民は、この世で弱さと強さを併せ持つ民である。クリスチャンがこの世にあるとき、とても弱いものとなる。なぜなら、社会の中で自我を主張することがないからだ。また、罪に対して大胆でないために競争の中で相手を騙したり自分本位に相手を足台にしてのし上がるようなことも出来ない。要領が悪く、付き合いも悪い。(二枚舌で擦り寄ることも陰口に同調することも出来ない。)この世においては弱者である。いつも罪の世界に対して臆病である。それは神の命の性質がそうさせる。もし、クリスチャンがこの世に帰るなら、クリスチャンこそこの世において最も惨めな存在である。クリスチャンはエドムのように油を注がれた者に害を加えるということは出来ないからだ。

 しかし、クリスチャンの強さはどこにあるだろうか。それは、神の御心を行うことに対して大胆であるというところにある。私ではなく、主ご自身が私の内にあって戦ってくださる。それだから、この世のどのような人であろうと私たちに対抗することは出来ない。
 ガラテヤ書でパウロは「
私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が、この世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。(ガラテヤ2:20)」と証しした。パウロの大胆さは、キリストが私の内に生きているから私は何でも出来る、というところにある。

 クリスチャンはそのようにこの世に対抗できない弱さと、神の内にあって世が対抗できない強さがある。私たちが世にその信仰を理解しようとしてもらってもそれは無理なことである。私たちは私たちの弱さに対して世に同情を求めることは出来ない。だから、クリスチャンが神の力のうちを歩むことを求めないでこの世に帰るなら、命の宿る性質の故にこれほど惨めなことは無いのである。
 クリスチャンは既に神の子供である。それはもはやこの世のものではなくなったということである。生きる術は神の内にしかないのである。そのような者がこの世に帰るなら誰よりも惨めで不幸だ。その者はもはや、神の内にしか生活できない者であったはずだからである。
 しかし、神の子であるなら、誰よりも大胆でありうる。なぜだろうか。主なる神ご自身が私とともに生きてくださるからだ。